道徳経(日本語版)(六)

道徳経(日本語版)(六),第1张

道徳経(日本語版)(六),第2张

第五十一章

  「道」はすべてのものを生み出し、「徳」がそれらを養う。

  ものはそれぞれの性質によって形づくられ、関係ある状態がそれらを満たす。

  だから、あらゆるものはすべて「道」を敬い、「徳」を尊ぶ。

  「道」が敬われ、「徳」が自然に尊ばれるのは、

  誰かが命令するのではなく、自然にそうなるからである。

  このように、「道」はすべてを生み出し、「徳」はそれらを養う。

  それらを生み出し、育て、形を与え、特性を与え、かばい、守る。

  それらを生み出しても、所有することはない。

  はたらかせても、報いを期待せず、成熟しても、管理することをしない。

  これは見えない「徳」と呼ばれる。

  第五十二章

  世界には始めがある。

  それは世界の母と呼ばれる。

  その源を知ったものは、その表れを知る。

  その表れを知り、その源とともにとどまるとき、人生で不足することはない。

  言葉による表現をやめ、感覚への道をふさぐならば、一生くたびれることはない。これに対して、言葉が満ちあふれ、わずらわしさが増すならば、

  一生救われないだろう。

  見えないものを見るのが覚醒であり、柔らかさを保持するのが強さである。

  内なる光りによって覚醒にかえれ。

  そうすれば、不幸にならない。

  これは真実に従った暮らしと呼ばれる。

  第五十三章

  私にわずかでも知識があり、大きな道を歩むならば、

  それからはずれるのではないかと恐れる。

  大きな道はまったく平坦であるのに、人々は小さな近道を行きたがるものだ。

  宮廷はきれいになっていても、人々の畑はひどく荒れはて、

  倉庫には穀物の貯えはなにもない。

  支配者は高価な衣服を着て、立派な剣をつけ、腹いっぱい飲み食いし、

  法外な財宝と高価なものを持っている。

  これこその盗人であり、大きな道からはずれたことである。

  第五十四章

  しっかりと基礎がおかれておけば、引き抜かれるものはない。

  しっかりと抱かれておれば、抜きでるものは何もない。

  子々孫々祭祀はとだえないだろう。

  自己において道を修めれば、徳は本当のものとなり、

  一家族において修めれば、徳はあり余るほどになる。

  一つの村で修めれば、徳は永続するし、

  一国において修めれば、徳はたくさんのものとなり、

  天下において修めれば、徳はすべてをつつみこむものとなる。

  このように、自己を通して自己を熟視し、

  家族を通して家族を熟視し、

  社会を通して社会を熟視し、

  国を通して国を熟視し、

  天下を通して天下を熟視できる。

  私が天下をありのままにわかる理由は、こうするからである。

  第五十五章

  「徳」を豊かにもつ人は、無垢な子どもと同じように見られる。

  彼は、昆虫の針からも、野獣の爪からも猛禽の攻撃からもまぬがれる。

  骨や筋肉は強いとはいえないが、手のにぎりはいつもしっかりしている。

  男女の交合についてまだ何も知らないのに、可能性は明かであり、

  生命の本質は完全なものになっている。

  一日中泣き叫んでも声がかれることはない。

  彼の内的調和がだからである。

  この内的調和を知ることが真実とともにあるということだ。

  真実とともにあれば、啓発される。

  しかし、生命に何かをつけ加えようとすると邪悪になる。

  可能性をおしつけると、心は不自然になる。

  ものが不自然になると、それらは衰えていく。

  これは「道」からそれることである。

  そうすると、すぐに生を終えてしまう。

  第五十六章

  知っているものは、しゃべらない。

  しゃべるものは、知ってはいない。

  言葉による表現をやめ、感覚の門を閉ざし、すべての鋭さをにぶらせ、

  そのもつれを解きほぐし、その明るさを和らげ、そして、大地と一つになる。

  これは「道」と同一になるといわれる。

  それに近づくことができず、また、遠ざけることもできない。

  それに利益を与えることもできず、また、害を及ぼすこともできない。

  尊敬へと高めることはできず、また、恥の苦しめることもできない。

  だから、天下で最も尊い人なのである。

  第五十七章

  静けさによって国を指導せよ。

  めずらしい作戦で戦争を行え。

  何もしないで天下を勝ち取れ。

  どうしてそれがわかるかといえば、

  拘束と制限が多くなればなるほど、人々はますます貧しくなる。

  人々が武器を多くもてばもつほど、国はますます混乱する。

  こざかしいぺてん師が多くなればなるほど、奇妙なものはますます生じる。

  法令と命令の押しつけが厳しくなればなるほど、盗賊と悪漢はますます多くなる。

  だから、賢人はいう。

  「私は行動しない。

  そうすると、人々はおのずから教化される。

  静寂にしていると、人々はおのずから落ち着いてくる。

  何も干渉しなければ、人々はおのずから富み栄える。

  私が欲望をなくしておれば、人々はおのずから本来の簡潔さに戻る。」

  第五十八章

  国が簡素で寛大に治められるとき、人々は誠実で正直である。

  国が無上に猛烈な取り調べによって治められるとき、

  人々は誤りやすく、不正直になる。

  不運なときに、幸運があらわれ、幸運なときに、不運がひそんでいる。

  誰れが最後の正しさを決定することができるのか。

  あるいは、最後の正しさというのはいったいあるのだろうか。

  正しさがうそに変わると、善は邪悪に変わる。

  これは長らく人々を困惑させてきた。

  賢者はものを扱うとき、自分の考えをしっかりともっているが、

  しかし、鋭くはない。

  彼は純粋であるが、害を及ぼすことはない。

  彼はまっすぐであるが、激することはない。

  彼には光があるが、きらびやかではない。

  第五十九章

  自然に従って人々を導くには、つつましくすることがである。

  つつましくすることは戻ることを意味し、

  戻ることは、徳を積み重ねることを意味する。

  徳を積み重ねれば、あらゆるものがうまく扱われる。

  あらゆるものが扱われると極限に至る。

  極限において人は国を治めることができる。

  源にあって国を治めれば永続できる。

  根を深くし、幹を固くすれば、いつまでも生きながらえることができる。

  だから、大きな国を治めることは料理を準備するように簡単である。

  第六十章

  大きな国を治めることは、小さな魚を煮るのに似ている。

  「道」が天下に普及すれば、悪はその力を失う。

  それは、悪がもはや精神的力をもたないということではなく、

  その力が人々を傷つけないということである。

  実際、その力が人々を傷つけないばかりでなく、

  まず、支配者が人々に害を及ぼさない。

  どちらも傷つけることがないから、

  互いに「道」によって利益が得られるのである。

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