读新闻学日语(中日对照)(十)

读新闻学日语(中日对照)(十),第1张

读新闻学日语(中日对照)(十),第2张

ホタル帰る

  鹿児島県の知覧町は、「薩摩の小京都」とも呼ばれる落ち着いた町である。古い屋敷や茶畑の広がる静かなたたずまいと裏腹に、60年前の太平洋戦争中は特攻隊の基地が置かれていた。多くの青年兵士が日々飛び立ってゆき戻らなかった。

  たたずまい「佇まい」

  1.立っているようす。また、そこにあるもののありさま。そのもののかもし出す雰囲気。 「家並みの―」「庭園の落ちついた―」

  2.身を置くところ。暮らし方。また、なりわい。

  鹿儿岛县的知览小镇又被称之为 “萨摩小京都”,是一座宁静的城市。在这古老的家园和茶园延伸的静谧背后,却有着一段60年前作为太平洋战争中特工队基地的历史。每天都有众多的青年士兵从这里离开,并且再也没有归来。

  当時、軍指定の「富屋食堂」を営んでいた鳥浜トメさんは兵士らの世話を親身になって続けていた。明日のない青年たちから、母のように慕われた。その次女で当時女学生だった赤羽礼子さんが16日、75歳で亡くなった。

  した?う「慕う」(他五)

  (一)〈だれヲ―〉 その△人のそば(場所)に居たい、行きたいと思う。〔狭義では、そう思って、あとを追うことを指す。例、「母を慕って三千里」〕(追随、跟随)

  (二)〈だれヲ―〉 その人のイメージを いつまでも心の中に抱き、常にその思い出に浸る。

  「亡き母を―」(怀念、想念、爱慕)

  (三)〈なに?だれヲ―〉 その人の学問や人物を尊敬して、それに従おうと思う。

  当时,经营军队指定的「富屋食堂」的鸟浜托美就像亲人一样、一直照顾着士兵们。她受到了那些不知明天身在何处的青年们的敬仰。其次女、当时还是学生的赤羽礼子16日去世,享年75岁。

  礼子さんは、92年に没した母や自分と兵士たちとの親交を描いた共著「ホタル帰る」(草思社)を01年に出した。本の題は、出撃前日の宮川三郎軍曹との約束にちなんでいる。その夜、トメさん親子と兵士たちが食堂の横を流れる小川の上を見ると、ホタルが明滅していた。宮川軍曹が言う。「死んだらまた小母(おば)ちゃんのところへ帰ってきたい」「おれ、このホタルになって帰ってくるよ」。店に入れるように表戸を少し開けておくと約束する。

  ちな?む「《因む」(自五)

  〔「血並ナむ」の意〕 もとを尋ねるとそれに関係がある(というので、行う)。

  「雛祭りに因んだ〔=関係した〕催し/生まれた年に因んで〔=…を記念して〕名をつける」

  礼子于01年出版了与人合著的书籍《萤火虫归来》(草思社)。书中描绘了已去世的母亲及自己与那些士兵亲密往来的美好回忆。本书的题目,就由来于出征前和宮川三郎中士的约定。那个夜晚,托美母女和士兵们看到食堂边流淌的小河上、萤火虫闪烁的亮光。宮川中士便说到“假如我牺牲了,我也还希望能回答阿姨您这儿来。”“我,将化身为萤火虫归来”。他们约定好了,店门要留少许的缝隙,以便进入。

  軍曹が飛び立った日の夜、わずかに開けていた戸のすき間から一匹の大きなホタルが入ってきた。気づいた娘たちが叫ぶ。「お母さーん、宮川さんよ」

  在中士出征的那个夜晚,在稍稍打开的门缝里飞进了一只大大的萤火虫。注意到此的女儿大声叫道“妈-妈,是宫川先生呀”。

  青年たちの生が次々に絶たれる。予告され覚悟する兵士たちと見送る人たち。その悲痛な姿は、爆弾を抱えて体当たりせよという命令によってもたらされた。そしてその異常な命令は、あの戦争を始めたあげくになされた。

  青年们一个个的阵亡。到处都是随时做好牺牲准备的士兵们和送行的人们。那种悲痛欲绝,都是“抱着炸弹冲锋陷阵”的命令所造成的。而且这种不正常的命令,是从战争开始不久就下达的。

  礼子さんやトメさんと兵士とのきずなは胸をうつ。その伝言は、死を強いる戦争の醜さを伝え続けてゆくだろう。

  死を強いる戦争:让人去送死的战争(oi先生提供)

  礼子、托美和士兵们这种相互关切的纽带深深地震撼着我们。中士所留下的那句话,将把藐视生命强迫死亡、那战争的丑陋永久地传达给世人。

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