百聞は一見に如かず,第1张

百聞は一見に如かず,第2张

漢の宣帝の神爵元年、西北のチベット系遊牧民の羌が、反乱を起こした。これよりさき、羌の先零と言う一種族が、湟水の北で遊牧することを許されていた。彼らが草を求めて南岸に現れたとき、鎮圧に来た漢の将軍に、ふいに先零の主だった者千余人を殺害されたので、先零は怒り他の羌を誘い漢軍を攻め、漢軍は大敗を期し退いた。この時漢の宣帝は御史太夫丙吉を後将軍趙充国の元に遣わし、誰を討伐軍の将にしたらよいか尋ねさせた。
 
  趙充国は時に七十を越えていた。彼は現在の甘粛省天水市の人で、若い時から対匈奴戦に従軍していた。
 
  武帝のとき、弍師将軍李広利の配下として遠征した際、全軍が包囲され、食も乏しく死傷者も多く出た。この時充国は兵百余兵を連れて突進し、自ら全身に二十もの傷を受けながらも、包囲を破り全軍を救った。このときの功績により、武帝から車騎将軍に任じられた。以来彼の対匈奴・対羌の生涯がはじまる。
 
  その人となりは沈勇で大略があり、下門を受けるに相応しい人物であった。彼は質問に「老臣に優るものはありません」と答えた。
 
  彼は召し出されて宣帝より更に尋ねられた。
 
  「将軍が羌を討つとすれば、どんな計略を用いるのか?また、どれほどの兵を用いればよいのか?」
 
  老将軍は答えて言う、「百聞は一見に如かず。およそ軍の事は実地を見ずに遠くからは計りがたいもの、
それゆえ願わくは金城群に赴き、図面を引いて方策を奉りたく存じます。」
 
  更にそう言って自分に任せて欲しい旨を述べた。宣帝は笑って「よろしい」と言ったという。(「漢書」趙充国伝)
 
 
  「百聞は一見に如かず」というのは、ここに出て来るのが最初とされる。おそらくは民間の諺でもあったのであろう。
 
  西洋の諺にも「十の噂より見た証拠一つ」というのがある。



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