看看日本人如何评价三国人物(3)

看看日本人如何评价三国人物(3),第1张

看看日本人如何评价三国人物(3),第2张

貧困の出

  呂蒙、字は子明である。

  呂蒙といえば、一般的には周瑜、魯粛の後を引き継いだ孫呉軍の軍師のイメージが強いと思われる。そして、呂蒙の後を継いだのが陸遜である。

  間違いではないのだが、呂蒙の場合は周瑜、魯粛、陸遜に比べると少し出が異質である。周瑜も陸遜も名門出身である。かなり毛並みの良い部類に入る。魯粛の場合はそんなに名門ではないが、持っていた財力を考えると、地方の豪族であったと思われる。育ちは悪くない。

  しかし、呂蒙だけは全く違う。呂蒙は庶民であり、その中でも貧困の部類に属していた人間である。孫呉軍に加わったときは、知力ではなく武力を買われている。彼が孫呉軍に参入したときは全く学識というものを持っていなかったと想像できる。

  虎穴入らずんば虎子を得ず

  呂蒙は幼い頃に江南に渡り、姉の夫である鄧当の元に身を寄せたとある。恐らく、彼の父は彼が幼少の頃に亡くなったのであろう。義兄である鄧当は、孫策の将として度々、山賊征伐に出撃していた。呂蒙は齢十五、六の頃、鄧当が山賊征伐に出た際、気づかれないようにこっそりと鄧当軍についていった。

  現地に着き、呂蒙が勝手についてきていることを知った鄧当は非常に驚き、そして激怒した。彼は呂蒙に帰れと叱り飛ばしたが呂蒙は全くそれを聞き入れなかった。仕方なく、鄧当は呂蒙をそのまま軍に置き、山賊討伐を行った。

  討伐を終え帰国した際、鄧当は呂蒙の母親に叱ってもらおうと息子の行動を告げ口した。当然、母親も我が子をそのような危ない場所に行かせたくなく、呂蒙を呼び出し叱った。

  その母親の怒りに対して、呂蒙は“母ちゃん、もうさ、貧しさや賤しさは我慢ならないんだよ。戦についていけばよ、もしかしたら功績も挙げられるかもしれないだろ。出世をして金持ちになる機会なんだよ。危ない、危ないって言うけどよ、虎穴は入らずんば虎子を得ずって言うだろよ??????.俺は母ちゃんが何を言っても、戦いについていって手柄を上げて出世したいんだよ”と全く母親の言うことを聞かなかった。

  母親は我が子を哀れみ不憫だと思い、そしてそれ以上は何も言わなかった。それ以降、呂蒙は毎回、義兄の軍についていくようになる。

  ぶち切れ呂蒙

  しかし、そんな鄧当軍に事件が起きる。それは鄧当配下の官吏がまだ年少であった呂蒙を軽んじて、みんなの前で“おいおいおい??????あの下の毛も揃ってないクソガキに何が出来るんだよ??????.あんなガキなんぞ、虎の餌になるぐらいしか能がねーじゃねーかよ”と罵った。だが、呂蒙は何とかこの悪口に耐えた。

  しかし、後日、この官吏が再び呂蒙に会ったとき、またもや呂蒙のことを蚩辱した。怒り狂って切れた呂蒙は抜刀し、その官吏を滅多切りにした。我に返ったときは、返り血で血まみれになっており、相手の死体も人の形を成さないほど切り刻まれていた。

  慌てた呂蒙は出奔し同郷の村長の家に逃げ込んだ。そこで頭を冷やした呂蒙はしばらくすると自首することを決意して校尉である袁雄を尋ね事情を話した。袁雄は事情を理解し、呂蒙と共に君主である孫策を訪れ理解を求めた。

  孫策は呂蒙事件の一部始終を聞いた。“気持ちは分かるが血気に流行って同じ軍の者を殺害するとは決して褒められたことではない。だが私に伝わるその気迫は捨てがたい。私がお前の面倒を見よう。”そう言って、孫策は呂蒙を側近の座に据えた。この頃、孫策は人材を集めていたが呂蒙に会ったとき、呂蒙の非凡さを見抜いたのであろう。

  孫権のもと

  その孫策死後、義兄である鄧当も他界し、呂蒙はその軍勢を引き継ぎ、別部司馬を拝命した。その頃、孫策の跡を継いだ孫権は軍事編成を行う。孫権は小さくなった部隊を統合して一部隊の規模を大きくすることを考えた。

  この情報を既に得ていた呂蒙は、孫権が閲兵する際、借金をして自軍の兵士たちに赤い上着と行縢を揃えた。孫権が呂蒙の軍を見たとき、その陣列は赤々と輝き兵士は良く調練されていたと書かれている。それを見て喜んだ孫権は呂蒙の軍勢に他の部隊を加え、呂蒙の部隊を増加させた。

  孫権の目にかなった呂蒙はその後、丹陽征伐に従軍し行く先々で期待に応えて功績を立て、彼は平北都尉を拝命し、広徳の長県を領した。この丹陽征伐とは、恐らく国内平定の為の山越賊討伐の事を言っているものと思われる。

  黄祖討伐戦

  孫権は政権を引き継いだ後、しばらく国内平定に力を注ぐが203年国内の情況が安定したところで本格的な軍事行動を起こす。父の敵である黄祖討伐である。孫呉軍にとって、今後、荊州方面に領土を広げるためには黄祖軍を叩き潰すことが必須であり、また黄祖は父を殺した上、度々、孫呉領土に略奪しに来る憎き相手であった。

  しかし、孫呉軍は203年の黄祖討伐戦では手痛い敗北を喫し、凌操という大事な武将まで戦死してしまう。同時に山越賊の動きが活発化してきたので孫権は兵を引き上げ、呂蒙は国内平定の為に豫章郡に戻る。参考までに、孫権が曹操に比べて大きなハンデを背負っていたのは、中原に比べ江南、江東は非常に国内事情が悪く安定しにくいところにある。

  その後、孫権は再度黄祖討伐を行うが勝利は出来なかった。しかし、この戦いで敵将の甘寧は黄祖を見限り呉にやってきた。呂蒙と甘寧は面会し、すぐに意気投合した。呂蒙は彼を周瑜に紹介し、その後、周瑜と呂蒙は二人で孫権に甘寧を推薦し孫呉軍の将として迎い入れた。

  孫権は208年に周瑜に軍を任せ等々、黄祖を撃破した。この戦いにおいて黄祖は都督陳就に出陣を命じて水軍にて孫呉軍を迎撃させた。呂蒙と董襲は周瑜の命により先鋒を率いた。呂蒙はまず、凌統に張碩軍を急襲させ、董襲に敵の蒙衡を分断させた。

  そして、それが成功すると呂蒙は十数隻の小舟艇を率いて突進し、敵の船に乗り込み敵将陳就を発見するや否や、自らの手で陳就の首級を挙げたのである。呂蒙の武力と戦術眼が光る戦いであった。

  この勢いに乗じて孫呉軍は一気に敵の城へと攻め寄せる。黄祖は陳就が死んだと聞き慌てて城を棄てて劉表を頼るべく逃げ出したが、結局は孫呉軍に追いつかれ馮則がその首を挙げた。

  この戦いにおいて孫権は“黄祖討伐の成功は、最初の戦いにおいて陳就を先に倒したことにある!”と呂蒙の功績を絶賛し、呂蒙を横野中朗将とし、銭一千万を賜った。

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