日语阅读:高田賢三
1999 年10月7日にパリで行われる2000年春夏のプレタポルテのショーを最後に、日本人のパリモード進出の先駆けとなった高田賢三(たかたけんぞう)さん (60)が10月のショーを最後に、事実上、引退する。KENZOブランドを傘下に収めるフランス高級ブランドの大手、モエ。ヘネシー.ルイ。ヴィトン (LVMH)が発表した。
高田賢三さんは1939年2月27日、兵庫県(ひょうごけん)姫路市(ひめじし)で生まれる。1959年、文化服装学院デザイン科に進学。同級生には松田光弘やコシノジュンコ、金子功などが在籍していた。1961年、第8回装苑賞(そうえんしょう)の大賞を受賞.デザイナ-への道を開き第一歩を歩み始める。
1965年フランスに渡り、プレタポルテだけに的(まと)を絞ったモノセックスなスタイルに素朴(そぼく)な素材(そざい)、ジャポニスム的な色調(しきちょう)や模様(もよう)などがパリのモード界で認められ、1970年に行った最初のショー以来、人気デザイナーに。彼のコレクションでは、既成概念(きせいがいねん)を打ち破り、明るく陽気(ようき)で楽しいファッションを発表しました。それは街(まち)で着られるストリートファッションとして、若者の圧倒的(あっとうてき)な指示(しじ)を受け、また、それはエレガントでシックなファッションが中心だったモード界オートクチュール界に衝撃(しょうげき)を与え、パリのシックエレガンスに対し、服を理屈(りくつ)っぽく考えず楽しく、軽やかにラフに着こなす提案(ていあん)をしました。
彼をこの道に進ませた動機付けは、二人の姉と、少女雑誌「ひまわり」や「それいゆ」でした。少年時代の賢三氏は、幸せな家庭環境の中で大勢(おおぜい)の兄弟姉妹(男5人女2人)に囲まれ成長しました。学校での成績は抜群(ばつぐん)でいつもトップクラスの優等生(ゆうとうせい)でした。絵を描くことが大好きで素晴らしい才能(さいのう)をもっていました。しかし、スポ-ツは余り得意(とくい)でなく、家で静かに絵を描いていたり、端布地(はしぬのじ)で人形(にんぎょう)を作ったりすることが好きだったようです。姉たちの手芸(しゅげい) の端布地の美しさに魅せられたこともモ-ドの世界に足を踏み入れた大きな要因(よういん)でした。
「僕の日本の良さ、日本人であることを何らかの方法で表現したかったのです。今迄に人が作ったことのない服を作りたかったのです。僕のモードは西欧的な伝統という視点から遠い異質(いしつ)な文化圏(ぶんかけん)、言い換えれば周辺性(しゅうへんせい)に目を向け、日常着からイメージしたところに70年代のモードの方向性と新しさを求めていました。」と彼が言った。彼のコレクションのフィーリングが時代性に合い、また時代の流れを適切(てきせつ)に見ていたメディア(媒体)「エル」や「マリークレール」が圧倒的(あっとうてき)な若者の支持(しじ)を得ており、彼らによって絶賛(ぜっさん)の評価(ひょうか)を受けた。
時代は年々変化していますが、70年代は自分のデザイン性を、80年代は70年代に発表したコレクションをさらに洗練(せんれん)させて展開していきました。色彩(しきさい)の魔術師(まじゅつし)、木綿の詩人、フレッシュで詩情に富んだ個性的なモ-ド、誰にも真似のできない大胆な色使い、意表をついた素材で世界中の女性を夢中にさせる世界の「KENZO」。
1983年に始めた男性ものや1988年に進出した香水部門でも「KENZO」や「ジャングル」などヒット商品を出した。KENZOの固有店は世界で三十七店。デパートなどのコーナーは百二十四カ所。ライセンス契約は五十二とモード界でも最も成功したデザイナーの一人に数えられている。
1984年、フランス政府より芸術文化勲章「シュヴァリエ位」受賞. 1985年、第3回毎日ファッション大賞受賞.「KENZOライセンス??グッズ」
婦人服、紳士服、子供服、着物、ジ-ンズ、ゴルフウエア、スカ-フ、貴金属、アクセサリ-、ネクタイ、ハンカチ、手袋、傘、ベルト、バッグ、靴、小物類、時計、メガネ、化粧品、香水、陶器類、漆製品‥etc
◆注解◆
プレタポルテ―高级妇女成衣、预制服装。
モノセックス―中性时装。
スタイル―式样、风采。
ジャポニスム―日本主义。指日本对欧美的美术方面的影响。
コレクション―时装展示会。
シックエレガント―精美的、豪华的。
オートクチュール―高级时装店フィーリング―感情、感觉、触觉。
ストリートファッション―街头时尚。
「エル」―「ELLE」时装杂志。
「マリークレール」―「MARIE CLAIRE」时装杂志。
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