日语:贅沢消費論,第1张

日语:贅沢消費論,第2张

要旨

  なぜ人は贅沢な消費を行うのであろうか ? この小論ではこの問いに答えるために、どのような贅沢であれば、それが望ましいものであると考えることができるか、というあるべき消費規準についての考察を行っている。この点を追求するために、贅沢観念のいくつかの系譜にしたがって、その変遷を辿っている。これらのなかでもとりわけ、ジンメルの流行理論と、ヴェブレンの浪費原理に注目している。これら二つの考え方のなかには、16世紀以来の趣味論の系譜のなかで培われてきた、趣味形成の議論が含まれていると解釈できる。これらの議論は、再帰的な過程を経て、社会的に妥当と考えられるようになる消費の規準を明らかにしている。この小論ではこのようにして最終的に、贅沢消費の趣味論的な理解を行うなかに、現代の混沌とした消費社会のなかでの、あるべき妥当な消費規準を見いだそうとする試みを行っている。

  Why Does Mankind Consume Luxury goods?

  -The Judgement of Taste in the Consumption Theory of Simmel and Veblen -

  Motoshi SAKAI

  Abstract

  Why does mankind consume luxury goods and services ? This paper makes an investigation into the judgement of luxury consumption. We search this matter by tracing the history of the idea of luxury, and pay a special attention to the Simmel's theory of Fashion, and the Veblen's Principle of Waste Consumption. We are based on the theory of the Judgement of Taste, and interpret these ideas of consumption. People's taste of consumption is made up through the process of “reflection," and carries social validity. We eventually have a trial of finding the judgement of luxury consumption in understanding the taste formation of luxury in this essay.

  1.贅沢の観念

  贅沢という言葉をあらわす英語は、ラグジャリー(luxury) である。この語幹のluxeという言葉は、すでに日本語のなかに定着しているデラックス(De Luxe) という言葉から推測できるように、過剰なことあるいは豊かなことという意味を持っている。つまり、贅沢ということは、ある程度以上に過剰に存在するものを表すこととして、つねに成立してきている。

  ここで人間の消費活動について考えるときに、この贅沢の持つ過剰性という性質には、性格がすこし異なる二つの意味が含まれていることがわかる。ひとつは、余計なものとして、本来の必要不可欠のものから、限りなく分化され、分離するような、派生の可能性を持つものである。本来の性質に対して、「付加的 (additional)」といいかえることのできるものである。新しく生まれる変化の要素を表している。このことは、消費活動を考える上では、必需と贅沢の対比に現れてきている。必要最小限の消費が必需という形で成立するのに対して、贅沢消費はそれを上回る支出として、付け加わる部分である、と考えられている。

  ところが、もうひとつの意味を含むものとして、贅沢の観念は成立してきている。それは、同じく余計なものであっても、そこに次第に沈殿し蓄積されていくものとして、最終的に残されたもの、不変のものという意味である。このことは、イタリアの社会経済学者V.パレートによって「残基(residual)」と呼ばれることになる特性である(1) 。言語学の比喩を用いるならば、あたかも派生語をたくさん持つことができる「語根」のようなものとして、この贅沢の過剰性が体現されるものである。贅沢という言葉には、このようにはじめの段階から、つねにこの二つの意味が対立したり、また結合したりしながら含まれてきているのである。

  この点で示唆的なのは、人類にとって原初的な贅沢の在り方である。たとえば、人類の家屋は収穫物の貯蔵庫から始まった、という人類学者J.E.リップスの報告はたいへん重要な意味を含んでいる(2) 。人間は、洞穴やテントのような風雨を防ぐための最低限の家から、徐々に定住のためのがっしりとした、平地に建てられる家屋に移っていくことが知られている。このような「贅沢な」家屋は、なぜ可能になったのか、という問題がある。つまり、人間のすむ定住用の家屋というものの原型はなにか、ということである。リップスによれば、このような家屋の原型は、風雨をしのぐための必需型の洞穴やテントの類の家屋ではなく、むしろ定住のために建てられた、いわば贅沢型の家屋タイプであるとする。というのも、このタイプの家屋は、そもそも人間を物理的に保護する目的で建てられたのではなく、彼らの糧となる収穫物を保存するために建てられたからである、と指摘している。人間の肉体を守るという直接的な欲望によって、家屋という贅沢が可能になったのではなく、収穫物を蓄積することが長期的に重要であるという「贅沢な」習慣が家族のなかでしだいに認識され、残基となって、そののち家屋が形成されたのである。結局のところ、蓄積などによる余剰、つまりこのような豊かさの保存が可能になったとき、はじめて人間は贅沢という観念を獲得するといえる。

  贅沢消費とは、間違いなく過剰な消費を行うことであり、それは表面的には、人間の欲求が高度になったからであるという解釈も可能かもしれない。けれども、わたしたちが忘れがちなのは、この贅沢消費が行われることそれ自体よりも、むしろこの可能となる条件の方である。過剰な消費ができるためには、過剰分の原資となるものがなければならないし、またときにはそのための蓄積が存在しないと可能ではない、というきわめて単純なことが見過ごされがちである。とかく、贅沢では消尽の方に目が奪われがちになるが、むしろ注目しなければならないのは、こちらの残余と蓄積の方である。

  2.社会的機能としての贅沢

  すこし話を戻して、はじめに贅沢の付加的な過剰という意味に注目するならば、贅沢は後で述べるように装飾的な美的感覚のような質的な問題であるよりは、まずは量として、圧倒的に多いことに意味があった。この点で贅沢の観念に明確な定義を与えたのは、十九世紀から二十世紀にかけてドイツで活躍した経済史家 W.ゾンバルトである(3) 。彼は、1912年に著した『恋愛と贅沢と資本主義』という書物のなかで、「贅沢とは、必需品を上まわるものにかける出費のことである」と考えた。必要以上の出費という量的な問題として定義を与えている点で、積極的意味を持つものであった。ここでは、贅沢という消費の規準について、質的で絶対的な規準を採用するのではなく、むしろ必需との関係で成り立つと考えるような、相対的な規準を考えていることになる。

  量的な問題に限っていうならば、贅沢は必需とはあきらかに異なる性質を示す。もし人びとの消費活動が必需のみに限定されるならば、必要とするものには限りがあるのでいずれは飽和状態に達してしまう。ある一定のところで、人びとの消費は止まってしまうはずである。ところが、実際の消費活動のなかには、贅沢消費も相伴って含まれるために、所得水準の上昇があるならば、消費の増大には限りがないようにみえる。このような「消費につぐ消費」という量的な現実は、贅沢消費によって、かなり増進されるといえる。統計的にみても、贅沢消費は所得の変化に敏感に反応する性質を示している。言い換えるならば、贅沢消費はいわゆる所得弾力性の高い性格を示すことがよく知られている。

  ゾンバルトは、贅沢消費のモデルのひとつとして、十七世紀から十八世紀のフランス絶対王政期ルイ十四世を取り上げている。必需的な生活を送っている庶民階級に対して、贅沢消費を行っている貴族階級の消費を位置づけた。ルイ十四世は、この時代のと称せられる建築家、造園家、画家、家具職人たちを集め、資力のかぎりをつくして、ヴェルサイユ宮殿をはじめとする多くの宮殿を建設している。当然のことであるが、宮殿は建築物として壮大な規模を誇っている。寝室をはじめとする部屋の数は多い。室内装飾でもキャビネットや箪笥などの工芸的な家具調度品が数多く揃えられている。また、芸術作品の収集にも、国家予算の多くが使用された。

  このルイ十四世の例では、質的な贅沢も重要ではあるが、同時に量的な意味での贅沢に注目に値すべき点が多い。たとえば、馬車は一人に一台あれば十分であるにもかかわらず十台所有したり、一人の食欲を満足させるために十人前の料理を用意したりするような、量的な贅沢が貴族生活の消費にはほぼ必ず含まれている。ルイ十四世の宮殿建設には、国家予算の多くがつぎ込まれたが、これらの収入の伸び以上に、さらにこれを上回って贅沢消費に資金が回されたのである。

  問題は、なぜ今日では浪費と考えることのできるような消費様式が、王侯??貴族階級にだけは許されていたのか、という点である。ゾンバルトの答えは、贅沢消費には市場形成を行う力が存在するからだ、ということにある。少し矛盾しているように見えるかもしれないが、貴族の行う贅沢消費は一面では浪費的で、非生産的ではあったが、同時に他面ではきわめて「生産的」な側面を持っていたといえる。というのも、王侯や貴族階級が大判振る舞いの贅沢な消費を行えば、それによって庶民層の所得水準が上昇し、さらに平均的な消費支出を増加させる影響を及ぼす可能性がある。封建時代でも、今世紀の経済学者ケインズが指摘したような乗数効果が作用するからである。「ビンの秘密」と文明批評家G.バタイユによってよばれた効果がここでも働き、貴族消費は、大蔵省によって紙幣が詰められ、砂漠に埋められたビンを掘り出しその中身をつかうことと、同じ効果を社会へ与えることになる。もちろん、こののち十八世紀の歴有名なジョン??ローの事件や、英国の南海バブル事件などの一連の事件を生み出す原因に、贅沢消費がかなり関わっていたことも、評価には加える必要がある。けれども、このようにしてルイ十四世の宮殿造りは、今日の公共事業に相当し、フランス国全体の経済を活気づけることに貢献したのである。

  ゾンバルトと同様の指摘は、じつはルイ十四世の時代からその後の時代に活躍したフランスの思想家モンテスキュー『法の精神』によってもすでに行われていた (4) 。彼は、贅沢が資産の不平等に応じて比例的に生ずると考える。このため、共和政では平等が基本原理なので贅沢は禁止されるべきであるが、君主政や貴族政のもとでは、不平等を原則としており、贅沢は禁止されるべきではないと考えた。君主政のもとでは、個人の富は庶民層の生存上の必需を奪うことによって増加したのであるから、それらを庶民層に返す何らかの手段が必要となる。つまり、もし「富者たちがそこで多くを費消しないならば、貧者たちは餓死してしまうだろう」という指摘を行っている。君主国家では、むしろ贅沢を行うことは庶民層から商人層、貴族層から君主へ向かって、しだいに増加する必要があり、もしこれを行わなければ社会全体が縮小し、すべての需要がかえって失われてしまうであろうと考えられた。歴史的にみても、ほとんどの国では、「贅沢( 奢侈) 禁止令」や「倹約令」が発布されるが、しだいに、これらの禁止令は廃止される傾向を辿ることになる。もちろん、江戸時代に見られるように、このような事情は日本にも当てはまる。

  なぜここで贅沢が正当なものとして評価されるようになったかといえば、贅沢が市場を形成し、需要を喚起する強い力を持っているからにほかならない。社会のなかで、経済的需要を維持するために、贅沢は必要だったのである。贅沢消費が行われることによって、君主から貴族へ、商人から庶民へ向かって波及効果が広がることがなかったならば、またこのような市場形成力が行使されることがなかったならば、歴史的にみて、これほどの支持は得られなかったであろう。このように、贅沢消費は市場を通じての分配と再分配という、量的な経済問題を含んでいる点で、まず認められるようになったのである。このとき、まず最初に行われる君主や貴族の贅沢消費は、純粋に「浪費」であり、「無駄」な意味しか存在しないかもしれない。けれども、これらが社会に対して波及効果をもたらし、庶民階級にとって必要不可欠の量的な効果を持つに至って、はじめて贅沢の社会的意味が存在することになる。

  このように、贅沢ということが社会的に認められるのは、まず社会の中の、貴族が行うような上流文化、高級文化(High Culture)として成立しているのを見ることができる。そして、贅沢は後で述べるように、貴族階級の威信を示すための特権的な財??サーヴィス消費として発展していくことになる。けれども、贅沢の今日的な問題は、このような贅沢が階級制のなかに成立するのではなく、大衆のなかで求められているという点にある。とりわけ大衆社会での贅沢とは何か、この点が問われているのである。

  3.精神的欲求としての贅沢

  人間の欲求構造のなかに、高度の欲求として存在し、必需に対してより付加的な贅沢という欲求が存在すると考える立場は、経済分野でも有効な考えとして受け入れられている。けれども、この欲求の内容を経済学的に確定することには、たいへんな困難がある。

  「驚くべきことに、人がなぜ財を求めるか、考えてみると誰もしらない」という問題提起を、現代において行ったのは、独自の観点から消費論を書いた文化人類学者のメアリー??ダグラスである(5) 。通常、このことに答えるのは経済学の役割だが、現代の経済学は、人びとの嗜好が短期には変化しないと考えている。消費欲求の内容と考えられる、嗜好や趣味(taste )は所与であって、そのかぎりで価格や所得の変化が消費者へどのような変化を及ぼすのかを、経済学は考察すると説明される。経済学は、欲望??欲求の内部には関わることがない。経済学者は、このような欲求の形成に関する有効な理論を持たない、ということは、暗黙の了解事項である。趣味は、経済学の消費理論での基本的な要素であるにもかかわらず、現代の経済学では、それは中身のわからないブラック??ボックスであると考えられている。経済学者のT.シトフスキーが指摘したように、人間は消費の刺激に対して鋭く反応するにもかかわらず、経済学はその途中の過程については追求することはなかった(6) 。また、K.ランカスターは、消費者が財そのものより財の持っている特性に反応する、と考える。バナナを消費するときに、消費者は直接的には栄養や味覚という特性に反応するのであって、バナナそのものの嗜好については間接的な選好を示すにすぎない、とする。このため、嗜好の内容に複雑な順序づけが存在することはすべての人が認めても、その順序づけを確定することまでには、経済学が深く踏み込むことがない。

  けれども、このような欲望や欲求の内容について、所与と考えるようになったのは、比較的最近である。すこし前の経済学者は、欲求の内容についての見解を明らかにしてきている。たとえば、『一般理論』を著したJ.M.ケインズは、「わが孫たちの経済的可能性」という論文のなかで、二つの欲求が存在することを指摘したことがある(7) 。ひとつは、他者に関係なく感じる欲求で、生理的で必需的な欲求であり、「絶対的欲求」とよばれるものである。もうひとつは、他者に優越する欲求で、飽くことなき欲求であり、「相対的欲求」とよばれたものである。このうち、絶対的欲求は、バナナをたくさん食べれば満腹になるように、物質的な充足がすすめば、いずれ飽和状態になるであろう、と考えられた。けれども相対的欲求は、優越する水準が高まれば高まるほど、より欲求の度合いは高くなる性質がある、と考えた。ケインズの考える「孫たち」の時代には、絶対的欲求についてはある程度充足させることは可能だが、相対的欲求については永遠に充たされることはない、と考えた。

  この点で参考になるのは、心理学のA.H.マズローである(8) 。彼は、『人間性の心理学』のなかで、欲求段階を示している。ここで、経済学が容易になしえなかった、欲求の内容と欲求を行う順序段階を提示している。そこでは、基本的な欲求であると考えられる物質的欲求から、より高次の欲求であると考えられる精神的な欲求へ向かって、充足の順序段階を明らかにした。低次から高次へ順位をつけて、欲求が発展していくと考えられた。

  まず第一に、栄養摂取、睡眠などの生理的な欲求が基礎となる。第二に、社会の秩序家族の安定などの安全欲求。それに続いて第三に、交際や情愛などの愛情の欲求がある。さらに第四に、支配や評価などの尊敬欲求。そして第五に、潜在的な自己を現実のものにしたいという、これらの欲求の中でも、とりわけマズローの名前を高からしめた、自己実現欲求がある。このように、人間の欲求の中に、物質的な欲求に止まらず、精神的な欲求の存在することを示し、多様な欲求の有り様を提案した点で、マズローの欲求分析は評価することができる。けれども、実際にはこの欲求段階の充足順位がかなりあいまいなことは、マズロー自身がすでに理解していた。欲求の定式化ということには、かなりの不確定な要素が含まれることはよく知られている。たとえば、宗教的な体験でよく語られるように、空腹だからといって、自己実現を絶対に図ることはないとはいえない。

  このように、マズローは欲求の内容を五段階に分類を行ったが、その順序づけはかなり直線的な位階で統御されるものと考えられてた。けれども、このような欲求が現れる過程は、かならずしもこのような直線的なものばかりではない。間接的で、かつ再帰的な過程を含むものとして成立してきている。たとえば、消費が行動となって現れるときには、購入段階の欲求と、使用段階の欲求は必ずしも同じわけではない。いくつもの欲求が複合していることが、今日の消費の特徴となっている。じつは、このように消費の使用や消耗過程が強調されるようになってきたことには、人びとの欲望??欲求観の転換があったと見ることができる。ここに、欲望??欲求がどのようにして形成されるのか、ということが問われるようになる兆候を見ることができる。もっとも、このことを異なる側面から見れば、欲求というものが贅沢消費に及ぼす影響は、たいへん不確定なものに止まることを示している。とりわけ、社会のなかで現れる消費欲求の場合に、このような社会過程の影響を受け、不確定になることが考えられる。

  つまり、贅沢のような欲求の構造には、個人欲求のなかだけでは決定できない性質の欲求が存在することが知られるようになってきている。この点で、ほぼ 200年前に生きたスコットランドのD.ヒュームはかなり常識的で、洗練された贅沢観を持っていた(9) 。同じ贅沢にも「良い」贅沢と「悪しき」贅沢とが存在し、この判定はたいへん難しい。その時代に、マンデヴィルが風刺的に描いたように、浪費は個人的にみると悪徳である場合でも、社会全体にとっては有益である場合もある。またその逆の場合も存在する。ヒュームの判定にしたがえば、悪しき贅沢はたしかに悪徳ではあるが、それが失われたのちにはびこる「怠惰」や「無為」よりははるかにすぐれている、とされる。欲求の程度にははっきりとした規準がない以上、悪徳を一掃するために、ひとつひとつの悪徳を徳と入れ替えていくようなことはできない。もし人間にとって贅沢消費ということを避けることができないならば、人間に可能なのは、ひとつの悪徳を除くために別の悪徳を以ってする以外にない。贅沢の節度を守ることが必要であろう。おそらく贅沢消費の問題は、この部類に属する問題ではないだろうか。そして、このような過程を通じて、贅沢への欲求は、何度となく社会による淘汰作用を受ける必要がある。

  4.趣味の再帰的性格

  心理学以外にも、欲求の内容を問う学問が存在しなかったわけではない。とくに、贅沢消費については、社会的な作用を織り込んだ欲求の構造が探究される必要がある。もし社会理論に近いところに、この観点を探すとなると、それは「趣味( taste)論」である。しかし、これらは理論発展の途中で、社会理論から美学??道徳学の分野へ追いやられてしまっていた。十六世紀から十八世紀後半にかけて、趣味論はヨーロッパに形成された。けれども、十九世紀に入ると、美学理論のほうへ押し出されてしまい、社会理論への影響は薄れてしまった。ここでは、すこし迂回することになるかもしれないが、この忘れられた観点を喚起して、趣味についての議論を贅沢消費の文脈のなかへ復活させてみたい。

  まず、消費活動に近いもののなかで、食事の趣味論を取り上げてみたい。多くの消費社会では、グルメ、グルマンと呼ばれる「贅沢な」人びとが現出することがある。これは、グルマンディーズ (gourmandise)、つまり食道楽あるいは美食趣味という言葉に由来する。このグルマンディーズに詳細な定義を与えたのは、1826年に『美味礼賛( 味覚の生理学)』を書いたブリア-サヴァランである(10)。フランスでは、すでにフォンテーヌや百科全書派のもとで、趣味論の伝統があった。このグルマンディーズという美食趣味とは「暴飲暴食の敵」であって、量としての贅沢を排除して、「味覚を喜ばすものを、情熱的に理知的にまた常習的に愛する心」であると考え、質としての贅沢を追求する立場である。食事は、大量に摂れば満足できるというものではない。また、単に栄養が摂れれば、良いというのではない。そこには、フランス語でグウ(gout)とよばれる味覚を満足させるような規準が存在すると、サヴァランは考える。

  つまりは、美味しいと感ずるのはなぜかということである。人びとが共通に美味しいと感ずるにはなにか原因があるのだろうか、ということである。そして、この味覚を成立させる感覚に三種のものがあるとする。直接感覚、完全感覚、反省( 再帰) 感覚である。たとえばすこし具体的にいうなら、この三つの感覚は、それぞれ(1) 桃を食べて、口の中で酸味を感ずる段階、(2) 飲み込む前までに、口中のあらゆる感覚が完成する段階、そして、(3) 飲み込んでしまってから、感じたことを総合的に判断して、「これはうまい」とつぶやく段階、があると考えられた。食事を行うという消費活動のなかで、味覚を感じるという欲求のためだけであれば、完全感覚まであればよいことになる。けれども、ここで重要だと思われるのは、第三の反省( 再帰) 感覚であると思われる。彼は「グルマンディーズはわれわれの判断から生まれるのであり、判断があればこそ、われわれは特に味の良いものをそういう性質をもたないもののなかから選びとるのである」と言う。この点は、ここでみた個人的感覚の問題を超えるものである。ここで人びとが示す「良き趣味」がどのようなものであるのかは、むしろ社会で形成される趣味の問題である。とくにこの点で「再帰」という視点が重要になる。ここで、趣味論は、個人心理のなかで直線的に構成されると考えられるような欲求論とは、一線を画すことになる。

  趣味が人びとの間で、多様に陥る傾向を指摘し、ここに再帰という作用が必要であることを説いたのは、前述の哲学者D. ヒュームである(11)。彼は、このような人びとの間には様々な感じ方があるにもかかわらず、それが調和されるような規則が成り立つと考えた。それを「基準(standard)」とよんで提示しようとした。この問題は、彼が1756年頃に書いたと言われる論文「趣味の基準について」のなかで指摘されている。彼は、趣味判断のなかでも、とりわけ批判と総合的判断の再帰プロセスを重視した。この結果、趣味の原理は「訓練によって向上し、比較によって完全にされ、一切の偏見を払拭している強靱な良識」のゆえに、形成されると考えられることになる。もっとも、このことをだれが行うのかという点では、批評家というものがこのプロセスの行使に関して貴重な存在だとされるものの、このような基準を提示できる批評家はまれであるとする。この点では、ヒュームの定義による趣味判断が普遍的な価値を持つものとして成り立ちうる条件には、かなり厳しいものがある。

  前述のサヴァランは、味覚というきわめて個人的な感覚に、趣味の性質をみた。けれども、すでにこの反省(再帰)感覚のなかに個人感覚を超えた問題のあることは、十八世紀の趣味論のなかで気づかれていた。サヴァランへ影響を及ぼしたと思われる、『判断力批判』を書いた哲学者I.カントも、同様に趣味に二重の意味のあることを指摘している(12 。快適に関する個人的な趣味判断であると考えられたのが、(1) 感覚的な趣味(taste of sense)である。これに対して、美に関する、普遍妥当的( 公的) な判断であると考えられたのが、(2) 反省的(再帰的)趣味(taste of reflection) である。そしてここで、カントは趣味が、その本質からして、私的なものに止まるものでなく、むしろ社会的な現象を含むものとして提示した。ある人が何かある物を「美」であると主張しようとする。このとき「この物は、私にとっては美しい」と個人的に言ったとしても、他の人達はそれを受け入れるとは限らない。彼は他者が同感するような、妥当な「美しさ」を提示しなければならない、あるいは他者に同意を要請する必要があると考えた。このとき、彼は自分自身の趣味判断と、他者の趣味判断の双方を含有しなければ、彼の主張は通ることはない。

  このような再帰性によって獲得されるような、他者を顧慮するうえで形成される判断能力を、カントは「共通感覚(sensus communis) 」とよんだ。そして、最終的にはこの共通感覚に基づいて、趣味の定義を与えている。つまり、趣味とは、「与えられた表象に関する我々の感情にすべての人が概念を介することなく、普遍的に与かり得るところのものを判定する能力のことである」と考えた。もっとも、このような「普遍的に与り得るところのもの」という普遍妥当的なものは、必然的にあらわれるというわけのものではない。けれども、趣味というものが成り立つときには、これに伴って必ずあらわれるのである。

  問題となるのは、なぜ当時贅沢の判断や、さらには消費論や社会論のなかへ、この趣味論が浸透して行かなかったか、ということである。おそらくここで、趣味が主として観念の問題としてのみ取り扱われてきてしまったからであるといえる。W. ベイトが指摘しているように、人文分野ではその後、古典主義からロマン主義へ移行するにつれて、個人主義的で、かつ観念的に、この趣味は解釈されるようになった(13)。あとで見るように、趣味が人と物との関係の中で引き起こされているにもかかわらず、実際には趣味という考え方は、観念の世界にのみ閉じ込められ、現代に復活されるまでは、消費理論の世界へはあまり適用されることがなかった。けれども、ここで見てきたような趣味論の枠組みは、すくなくとも贅沢消費を問題にするときに、たいへん重要な視点を提供していると考えられる。贅沢という問題が、社会的な視点を必要とする、ということに目を向けさせる契機となる。

  5.贅沢の模倣過程

  趣味論での再帰過程が、もし個人的な審美眼としてのみ考えられてしまうならば、おそらく贅沢論のなかでは、この視点は美的贅沢の規準としてのみ取り上げられることになる、という誤解を受けるかもしれない。ところが前述のように、贅沢は社会に浸透してそのなかで、社会的な淘汰作用を受けていく現象である。この社会的な現象という点から見るならば、贅沢のひとつの源流は、貴族趣味を模倣する過程のなかに現れる。とりわけ、現代のような大衆社会では、贅沢はすこし上流の階層を模倣することが、贅沢のひとつのモデルとなる。こうして大衆社会では、あたかも贅沢は流行現象のひとつとして存在する。

  まず第一に、この点であげなければならない、古典的な理論がある。それは、フランスの社会学者G.タルドが1890年に書いた『模倣の法則』である (14)。この本によって、社会行動のスタイルが人びとの間に普及するのは、模倣という意味があるからだという考え方が一般的になった。模倣というのは英語でイミテーション(imitation) という言葉を使う。このイミテイト、模倣するという言葉は、いわゆるイメージという言葉と同類であり、実体があって、その実体を何かのイメージとして受け取る。つまり、鏡に映した像として受け取る。これが模倣というものになる。イミテーションというのは、いわばコピーというものを作る、という考え方になる。ここでは反復し、複写するということが模倣ということになる。社会的な行動というものは、だれかが一番最初に新しいものを作ったことは間違いない。そこでは模倣は存在しないが、そのあと追従者たちによって模倣されることで、大勢の人たちの間に普及するということになる。タルドは、このような模倣はいわば論理を超えた考え方であり、超論理的な方法によって起こるという指摘をしている。ここにひとつの論理的な飛躍があり、形作られた不変要素が残基となって模倣過程を形成し、社会が動いていくような、模倣によるダイナミックスを描いてみせた。

  ここでタルドは、模倣過程が社会プロセスのなかで生ずるという視点を提示して、この模倣が人間間で見られるいくつかの関係のなかに生ずることを見ている。なかでも、とくに上下関係、つまり上層階級と下層階級との関係として、起こることに注目した。このときに、下層階級が上層階級を模倣することで、社会現象が連鎖的に起こっていく可能性があると考えた。たとえば、タルドがあげた例では、貴族の行なっている奢侈が徐々に平民層に浸透していくことが典型的なものである。フランスの絶対王制期には、貴族文化というものが次第に平民層に模倣されることによって、消費活動が起こっていった。ここで、上層から下層への模倣過程は、自分の所属する層に最も近い層を模倣することから生じた。自分の近くにいる、ほんのすこし上の人たちの模倣をすることが、連鎖的に起こることである。そのほんのすこし上の人たちは、また自分のほんのすこし上の人たちの模倣をするという形がつながって、連鎖的に上層階級の真似をするということが起ってくる。このときに、社会全体でみて集団現象としての模倣が起こるであろうと考えた。このような形で上流層からの流行の普及ということが、上層階級から下層階級にコピーを作る形で模倣され、同じことが反復され、そして最終的に、贅沢消費が下層階級に伝染していくことになる。ここに、模倣という贅沢のひとつの本質があらわれる。

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  この関係を図示すると、全体の関係は三角形のピラミッド型になっていて、その一番の上層部のところにおそらく一人か少人数かの模倣される者が位置している。つぎに、それに追従して模倣する人びとが数人続き、次第にその上層階級の模倣が下層階級に浸透していくという形態をとっている。そして、贅沢としての消費が一般化し、大衆に浸透することになる。この指摘によって、タルドは模倣現象というものの最も基本的な理論を築いたといわれることになる。

  この古典的な模倣の考え方に対して、トリクル??ダウン理論という考え方が出てくることになる。このトリクル??ダウンというのは滴下と訳される。雫が下に向かって垂れていくのと同じように、上層階級から下層階級に文化が滴下することによって、社会行動が次第に大きな層に一般化していくと考える。しかし、このトリクル??ダウン理論のなかでも、タルドの模倣理論をそのまま受け継ぐのではなくて、それにもう一つの要素を加えたのが、ドイツの社会学者G.ジンメルである(15)。かれには、「流行」という論文がある。このなかで流行が生じる理由として、まず第一にタルドと同様、模倣過程というのは流行の要素としてはずすことができない、と考える。流行現象というのは上層部から下層部へ下がっていくような、階級間の現象であると考えた。このとき、上層部が先行者となって、徐々に多数の人びとが追随者となって雪だるま式に膨らんでいく。流行が次第に大きな集団を形成するようになるという過程を、まずは確認している。

  しかし、ジンメルは模倣だけで流行が生じるわけではないと考えている。ジンメルの視点のなかで、とくに今日の消費現象を考えるうえで優れている点は、流行現象のなかでの大衆化という傾向を、相対立する二つの動きによって複合的に説明していることである。大衆化というのは、単に下層階級が均等化して似たような傾向を身につけることだけを指すのではない、という点がここでは重要である。問題となるのはここで、ジンメルは流行が模倣だけではなくて、他者と異なるという、差異というものを含んでいることを強調する点である。この差異というものが存在することによって、さらに流行というものが定着するであろう、とジンメルは考えた。

  大衆化のもうひとつの動きのなかには、じつは模倣過程とまったく逆の過程が含まれている。それは、上層階級が新しい流行を「創造」し、それを下層階級に対して、「見せびらかし」する過程である。ここでは、なぜ大衆化には「創造」過程が必要なのか、とい点を、明確に考えておく必要があると思われる。というのも、「パンとサーカス」という言葉が残っているように、従来大衆化の欠陥は創造過程のないところにあると考えられ、これが批判されてきたからである (16)。そもそも大衆化とは階級現象、あるいはすくなくとも二つのグループ間での現象である、という点を見すごすべきではない。もし模倣過程のみが、大衆化現象であるとすれば、二つのグループ間の差異は、文化的にはただちに消滅してしまうことになる。模倣過程だけが贅沢が普及する基礎にあると考えると、上層から下層にわたって模倣が行われる結果、この人数には限界があるので、模倣が最後まで行き渡った段階で模倣過程は終わってしまい、最後は消滅してしまうことになる。だから、模倣というのは飽和状態を最終的にはもたらしてしまうものである。流行というのは、このように一回限りのものとして存在するというのが、模倣過程中心の流行理論であった。そして、大衆化現象は下層が上層に同化して、完結してしまって再び起こることはないことになる。

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  ここでジンメルは、流行理論の中で多様化が起こるメカニズムを、差異化という過程で説明し、この点を新たに付け加えた。かれは流行では、他者と違うということを強調することが、流行の本質的な要素のひとつであると考えた。たとえば、さきほどのピラミッド型の三角形を描いて、あるひとつの流行をここでAとよんでおく。これが先行者たちによって形成され、大衆層に模倣されるとする。Aが出たらそのAが模倣されて、最後まで膨らんでいく。ところが、それが飽和状態に近づくと、今度はBという流行が出てきて、そしてまた下層階級に浸透していく。ところが、浸透が進むに連れ、今度はCという流行が出てきて、次第にそれがまた流行として浸透していく。それが飽和状態に達すると、Dという流行がまた出てくる。この流行過程に従って、消費の多様化ということが行われるであろう。このような質的な意味で流行の拡大が起こるメカニズムを、ここでジンメルは差異化とよんだ。

  このように、AからBへ、BからCへ、CからDへというように、模倣が飽和するにしたがって、模倣とは異なる、差異化という新たな流行を作り出す創造過程が存在することになる。さもなければ、流行は一回限りで終わってしまうことになる。ところが、現実の世の中を見てみると、流行は継続されて、何回も反復して出てくるという性質を見ることができる。つまり、他者と違うものをいかにして作り出すのかということが存在しなければ、模倣ということは起こらない。逆に、模倣が起こらないと、新しい差異というものを強調する意味もない。ジンメルにとっては、模倣過程と差異化過程というものは、相互に存在することによって、同時に流行という現象を説明している。模倣過程と差異化過程がサイクルを描いていて、それぞれお互いに、模倣がなければ創造もあり得ないし、創造がなければ模倣もあり得ないという形をとって、両者がそれぞれお互いが成り立つ条件になっている。これが、ジンメルの大衆化が起こる説明の基本的な考え方である。流行のなかで、量的拡大と質的な多様化が同時に起こることを説明している。流行の大衆化過程では、模倣と差異化は分かちがたく結合されていて、両者はそれぞれ互いに対立する動きを特徴としている。しかしそれにもかかわらず、あるいはそれゆえに、両者はそれぞれが他方の成立する条件を成している。そして、この流行現象の説明は、贅沢の大衆化についても有効な説明を与えている。十九世紀になって、百貨店文化が起こり、流行をつくり出してはそれを大衆に広めていくという現象が見られた。これを観察して、小説家のE.ゾラが「贅沢の民主化」とよんだことは、かなり有名な事実として語られている。

  ジンメルの差異化と模倣という考え方は、明らかにこれまで述べてきたカントなどの趣味論の影響を受けていると解釈できる。第一に、差異化と模倣というプロセスは、趣味論の系譜に見られる二つの判断、つまり感覚的趣味と再帰的趣味に対応していると考えることができる。もちろん、ここでは個人のなかでの認識プロセスとして考えるカントと、社会のなかでの流行プロセスとして考えるジンメルとには違いはある。けれども、はじめに新しい認識を察知する感覚趣味と、社会のなかで新しさを打ち出す差異化には、類比的な関係を見いだすことは可能である。また、総合的な認識をもたらす再帰趣味と、社会のなかでの広がりを獲得する模倣過程との間にも、同型を見いだすことは難しいことではない。第二に、差異化プロセスと模倣プロセスが組み合わされることで、最終的に人びとに共通の消費習慣が生み出されると考えられているが、このことはカントの共通感覚に通ずるものと解釈できる。第三に、趣味論を消費理論に取り入れるの利点は、社会のなかで生ずる人間関係のダイナミックスと、消費行動との関係を明らかにできる点である。この点で、ジンメル理論は人びとの欲求を社会過程のなかで明らかにする、という趣味論の発展する方向をうまく理論に取り入れているといえる。この第三については、むしろそれまでの趣味論の限界となっていた点である。ジンメルは、個人のなかの社会認識を、明確に社会のなかの人間関係の、その関係プロセスのなかに位置づけることに成功した。趣味論の社会論的転回を図ったことで、社会理論として趣味論を成立させたと評価できる。けれども、やはりジンメルの流行理論には、贅沢消費を考察するときに、不満な点が残ってしまうことは否めない。それは、贅沢消費の最終的な評価??判断がいかにして行われるのか、ということが明確ではない、という点である。ジンメルは、模倣が現実の形態としては存在することは指摘しているが、それがなぜ妥当なものであるといえるかについては示していない。この論点については、つぎに見るヴェブレンの議論を俟たねばならない。

  6.浪費としての贅沢の観念

  先に述べたように、贅沢は市場形成力を持つために「生産的」であるという考え方もあるが、それとはまったく逆に、贅沢はまぎれもなく浪費(waste)であるという考え方も根強く存在する。ここで浪費とは、無駄遣いのことであり、役に立たないもの、必要でないものへの出費のことである。浪費によって、非生産的な消費が行われると考えるものである。経済学のなかでは、この浪費という観念が否定的に考えられる場合と、肯定的に考えられる場合とがある。

  浪費を否定的に考える立場は、M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかに典型的に見ることができる(17)。彼は、禁欲という生活態度のなかに資本主義の萌芽を見ている。たとえば、米国独立時の思想家B.フランクリンの態度のなかに、勤労と節約を心掛け、非生産的な浪費を排斥すべきだとする道徳観を見出している。このような禁欲主義の伝統は、今日ではかならずしもプロテスタンティズムのような宗教と結びついて論じられるわけではない。贅沢消費の結果、ゴミ問題などの廃棄物処理の問題が限度を超えると、このような明らかな浪費に対しては、批判が集中することになる。よく使われる比喩を使うなら、ろうそくに火をつけるために、一本のマッチで済むところ、十本のマッチを使うならば、これは過度の浪費であると言える。

  これに対して、むしろ浪費のなかにこそ積極的な意味を見出す立場も存在する(18)。浪費のなかに、過剰分の贈与、あるいは蕩尽という意味を見たのは、 M.モースの『贈与論』の考え方を受け継いだ、G.バタイユの『呪われた部分』である(19)。バタイユが積極的な浪費の典型例のひとつとしてあげたのは、北西部アメリカ原住民に伝わるポトラッチ(potlatch)とよばれている風習である。ポトラッチでは、もっとも富裕で実力のある部族の首長から、そのライバルと目される首長への富の贈与という形式がとられる。このとき、贈与の気前よさを見せつけるために、実力者や人びとの前で莫大な富を破壊したり蕩尽したりすることが行われた。たとえば、村落を無目的に焼き払ったり、何隻ものカヌーを粉砕したり、さらに紋章付きの高価な銅塊を、海中に投じたり打ち砕いたりしたことが報告されている。このような贈与や蕩尽が、孤独のうちに行われるのではなく、人前で行われるという点が重要である。首長は大事なものを失うという事実によって、じつはより重要な何ものかを獲得するという、積極的な意味がここにはある。このようにして、それまで蓄積してきた富の贈与や消尽は、これによってその実力者が自分が他者より上位者であるという、威信を手に入れることを意味していた。このような、いわゆる特権財や威信財として、贅沢の意味を解釈するのならば、威信特有の効用が存在することで、効用理論の枠内に納まってしまうことになる。けれども、この観点を超える考え方が、贅沢論の系譜には存在する。

  もし浪費の積極的な評価を行っている議論のなかで、現代に通ずるもっとも含蓄ある体系を展開した理論をあげるならば、それは1899年にT.ヴェブレンが著した『有閑階級の理論』である(20)。彼は、人間の性格のなかには、役に立つものを好み、無駄を軽蔑する「ワークマンシップ本能」を原理とする態度と、役に立たない、無用のものを好み、浪費に積極的な意味を見出すという「衒示的浪費(conspicuous waste) 」を原理とする態度が存在する、と考える。ヴェブレンは、後者の衒示的浪費の原理に積極的な意味を付与するような、有閑階級(Leisure Class) という貴族階級を仮構している。

  ここで問題なのは、なぜ人は必要以上の出費、つまり浪費を行うかについての、ヴェブレンの説明である。彼は、贅沢な浪費を行う動機を、物的な欲求や財そのものの物理的特性だけでなく、物的な財を超越したところにも求めている。浪費を行うのは、物的な財やサーヴィスそれ自体であるにもかかわらず、財そのものの消費にはあまり積極的な意味を与えていない。ここで浪費を行う、その根底にある動機は、金銭的な張り合い、あるいは見栄(emulation) であると考える。エミュレーションというのは、他者に優越したいという欲求である。名誉??名声を求め、上下の差別を明確にする(invidious) 心性に、浪費を行う理由を見出している。浪費を行うことは、ここでは人びとの格付けや等級付けを行うことであり、このことによって、他者との関係を表示していることになる。

  このように、ヴェブレンの考えた有閑階級は、名誉や名声を重んじる上層階級であるために、他者より優越することのみを目的として消費を行うところに特徴がある。けっして物質的な実益を求めるためだけに消費を行うのではないと考えられた。たとえば、この有閑階級が購入する衣服は、装飾的で高価なものが選ばれるが、これは美しいから選ばれるというよりも、むしろ富裕であることを誇示したいから選ばれるのである。また、有閑階級が身につける衣服は、身の自由を奪うような、動きにくい、非機能的なものが選ばれる場合が多いが、このような非実用的な衣服は労働を行うには不向きであるため、かえって自らが勤労せずとも暮らせることを誇示するにはもっとも適していることになる。さらに、有閑階級にとっては消費は自らの欲望のためではないという点でも特徴ある消費習慣を持っているといえる。つまり、自分にとって役に立たない無用なものに浪費することのほうが、自らの欲望を満足させるような実用的な消費より富裕でかつ地位の高いことを誇示できることになる。というのも、このことによって経済的に余裕のあることを衒示することができるからである。ヴェブレンは、有閑階級のこのような差異性を表示する消費習慣を「見せびらかしの消費(conspicuous consumption)」あるいは「衒示的消費」とよんだ。

  同じようにして、ヴェブレンは有閑階級の余暇のあり方を「見せびらかしの余暇(conspicuous leisure) 」とよんで注目した。彼は、余暇という贅沢には、より上位にある階級の富や実力を表示する意味がある、と考えた。余暇という習慣が、どのようにして人々のあいだに定着するのか。かつて、北欧のバイキングが富の所有を競って、この実力者としての名誉や名声を得たものが上位者の地位を獲得したと同様に、この有閑階級では「労働免除(industrial exemption)」や非生産的な時間浪費の程度を競争(emulate)して、より上位者であることを衒示する思考習慣が生成したと考えた。

  たとえば、つぎのものはヴェブレンがあげている有閑階級の示す労働免除ということのたいへん有名な例である。自分の手ではけっして食事をとってはいけないために、餓死してしまった「ポリネシアの首長」、王座を自分で動かすことをしてはいけないために、暖炉の前に座りつづけて火傷をおった「フランス国王」という例をあげている。このように、現在ではかなり浮世離れしていると思われる例でも、そこに労働免除という慣習が定着している有閑階級では、いかに切実な制度として、この余暇の「見せびらかし」が働いていたかを思い起こすことができる。つまり、ここでは余暇を過ごし、暇があるということをみせつけることは、現在の大衆余暇とはちがって、有閑階級が他の下位階級と異なることを誇示するためのいわば、「高級文化」として制度化されていたものであるといえる。富や実力をより一層多く蓄えるのではなく、むしろ非生産的、非物質的な活動を行って、財や時間の浪費を示すことが社会的な意味を持つことになる。ここにはじめて、「労働免除」ということが非生産的であるにもかかわらず、積極的な余暇の制度として公認されることになる。なぜ労働を行わないということが正当化されるのか、という余暇の契機にひとつの答えが与えられたことになるのである。余暇という人々の生活習慣は、有閑階級が差異ということを作りだすために、まずは高級文化へ向かう傾向として、創造されたと見ることができる。

  さらに、ヴェブレンの考え方のもう一つの重要な部分であると思われるのは、いわゆる代行的消費(vicarious consumption) というものである。有閑階級にとっては、自らが支出する消費活動やレジャー活動さえ、自分で行われるべき活動とはみなされないのである。他の家族員、あるいは使用人が浪費的な消費行動を代行し、その結果、代行という消費形態がさらに名声??名誉をより高めることになるとしたのである。ヴェブレンは、衒示的浪費の原理が代行的消費によって強化されることを説明している。この視点を導入することで、衒示的浪費の現象を幅広くとらえることが可能になっている。ここで、衒示的浪費の代行者とは、消費によって優越する有閑階級( 上位) と、優越される労働者階級( 下位) の中間に位置する、媒介者の意味がある。つまり、上位者には模倣によって従うが、下位者には差異を示すことで優越することになる。今日の消費社会を考える場合には、むしろこのような代行的消費の方が示唆に富む場合が多い。

  ここまでのヴェブレン解釈は、ほぼ従来どおりの考え方をそのまま踏襲している。けれども、ヴェブレンの「見せびらかしの消費」については、趣味論の系譜にしたがって、新たな解釈が可能である。次節で、この趣味論に沿った再解釈を試みたい。

  7 .ヴェブレン的消費の趣味論的解釈

  ヴェブレンの「見せびらかしの消費」は、4 節で辿ってきた趣味論の系譜に沿って構成されている、と解釈できる。ヴェブレンは、この著書『有閑階級の理論』の第六章で「趣味の金銭的な規準」という章を、特別に設けて趣味とは何か、趣味は消費にどのような影響を及ぼすか、について詳細な考察を行っている。ヴェブレンは研究生活をカント研究から始めている。おそらく、この趣味をとりあげているところに、影響のあとを見ることができる。

  それでは、ヴェブレンの定義する「趣味」は、どのようなものであろうか。彼は、趣味を、「消費を規制(regulate)する規準」と考えている。消費者は、物質的な消費によって「創造的な」趣味を発展させるが、それはエミュレーションという競争過程によって社会的に淘汰されるような、「規制的な」趣味によってチェックされる。この枠組みは、趣味論の枠組みに合致していると解釈できる。ここで、新しさを創造する過程を「創造の原理」とヴェブレンはよんでいるが、あきらかに趣味論でいう「感覚趣味」を類推させるものである。また、ここで社会的淘汰の過程が存在し、それを「規制の原理」とよんでいるが、これは「再帰趣味」の読み替えであることは容易に想像できる。

  この結果、消費を行うときに、人びとは暗黙のうちに公認された規則の体系(a code of accredited canons)に従うことになる。このように、消費の規則の体系は、ひとつの単純な原理でできているのではなく、有機的に結びついた複合的な思考習慣によって成り立っている。そして、消費する人びとはこのような共通の規則体系にもとづく「趣味」を持つに至ると考えられることになる。このような趣味は、消費者のなかにある暗黙の慣習的なルールのようなものである。けれども、この趣味は決して個人的なものでもないし、単なる物質的なものでもない。また、単なる個人の精神的なものでもないとする。したがってたとえば、消費者はすでに確立された慣例に従ったり、好ましくない評判のものを避けたり、良識や習俗にそむかないことを規準にしたりする。このような柔軟なルールに従うことで、実際の消費を実現することを目指している。消費者は、このような「趣味」という消費についての暗黙のルールを形成し、そのルールに従って消費活動を行っている。

  ここでヴェブレンは、このような衒示的浪費の原理が継続して働くならば、それはひとつの制度、あるいはヴェブレンの言葉を使うならば、思考習慣として成立していると考えている。一見すると、浪費行為というのは、人びとの個人的な欲望のおもむくままに行われているから、社会にとって無駄と考えられるような現象が生ずると考えられがちである。けれども、ここで見てきた衒示的浪費に典型的に見られるように、ここにも制度のルールが存在しており、このルールに則って浪費が行われていることが明らかにされている。浪費という、社会的に見てかなり逸脱した行為だと考えられているところでも、人間は「ルールに従う動物」であるという人間の本性を見出した点で、ヴェブレンの考え方は評価される。

  ヴェブレンの消費観をもし欲望論の延長線で捉えるならば、それはひとりの人の欲望は他者の欲望の影響を受ける、という効用理論の単なる拡張でしかないといえよう。この点は、フランスの経済学者マランボーによっても、かつて主張された点である。スノッブ効果、バンドワゴン効果、あるいは直接的にヴェブレン効果とよばれてきたことで、説明が終わってしまうことになる。消費者は、ひとつの商品が機能的で有用であるから購入する場合もあるし、その商品が機能的でなく、無用の場合でも購入するときもある。けれども、購入するとき、「なにが適当であるかについて、誰から何も教えられない」ような状況で、人びとは趣味という規準を、ようやく採用すると考える。

  このようにして、趣味の規準は人びとの消費活動に影響を及ぼす。このとき、ヴェブレンが繰り返して強調するのは、この規準が「創造的な原理 (creative principle)」として働くのではなく、むしろ「規制的な原理(regulative principle)」として働く点である。この規準にしたがったとしても、消費の新しい欲望がつくり出されるわけでもないし、また、新たな流行や消費慣習が創造されるわけではない。つまり、このヴェブレンの規準は積極的な(positive)原理であるというよりは、むしろ消極的な(negative) 原理として働いている。ここで消極的という意味は、趣味という規準が消費活動を淘汰的にしか判断しないということである。趣味は、新しい消費を直接生み出すことはしない。この規準に適合することが消費活動として生き残る、必要条件となる。この規準に合致することで、人びとの趣味による選択結果を受け入れることになる。ここで、ある消費活動が適切なものかどうか、妥当な活動なのか否かは、この規準に適合しているか否かに依存している、と考えられている。この立場は、明らかにヴェブレンが趣味論のなかに、社会進化論を持ち込むことで、最終的な贅沢消費の評価を行おうとしていることを示している。このヴェブレンの衒示的浪費規準は、贅沢消費が残基となって形成されるが、その過程でこの規準に合致しない消費活動が淘汰され規制されていく、社会進化のプロセスが進行すると考えられていることになる。人びとの示す消費の思考習慣は、創造の原理にしたがって発展するが、規制の原理にしたがって、社会的に定着するというサイクルを描いて、ひとつの完結性を保つと考えられる。

  このようなプロセスの結果からわかるように、贅沢消費のなかでも、このような規制原理を胎化していないものと、規制原理を胎化しているものとがそんざいすることに、私たちは注意しなければならない。規制原理を持たない贅沢消費は、人びとの欲望を増長させ、過度の膨張を繰り返す結果、最終的には崩壊する可能性が高い。これに対して、規制原理を付帯する贅沢消費は、欲望の過度の増大を抑制することができるため、進化論的に考えて生き残ることになるであろう。

  8.「見せびらかし消費」のなかの二重の意味

  消費社会とは消費を通じて人びとが結びつく社会である。財??サーヴィスを購入し、使用し尽くすことのなかで、人びとが結びつく社会というものが構成される。消費社会とは、「人と物との関係」が前景に出て、「人と人との関係」がその背景で同時に形成されるような社会である。

  この点で、これまで何度となく引用してきたヴェブレンの「見せびらかしの消費」という言葉には、この両方の意味が同時に含まれており、このことでもこの論文全体を考える上でも、象徴的な言葉となっている。けれども、もしこのような「見せびらかしの消費」行為をみて、単にこの行為を日常生活で見られるような、人びとの「見栄」を張るためだけの行為であると解釈するならば、このような説明はいわばお笑い種でしかない。有閑階級でなくとも、今日の消費者も、見栄のために「高級服」を購入することはある。このように高級服の使用目的が、見栄を張るためだけならば、このような行為はせいぜい風刺の対象になるぐらいであろう。「成り金趣味」や「悪趣味」の一種だと片づけられるにすぎない。これは、「見栄」という消費サーヴィスが単に目に見えないサーヴィスであるというだけで、実質的にはこれは従来の物質的な消費とあまり変わりない。これは、むしろヴェブレンの言う「創造の原理」に則って生み出されるような、新たな欲望でしかない。

  しかしながら、この「見せびらかしの消費」が意味を持つのは、ここに二重の意味が込められているからである。この行為も消費行為であるからには、物質的な財を消費することにひとつの意味がある。けれども、それと同時にこの消費行為は人間関係を表示するという意味も含んでいる。ここで、物質的消費が行われ、「人と物との関係」があらわれると同時に、社会競争という「人と人の関係」がその消費のなかには反映されている。そしてこの場合に真に重要なのは、この「人と人との関係」がしばしば「人と物との関係」の基礎的な条件を形成し、それを基本的なところで規定する場合がある、ということである。つまり、ヴェブレンの消費理論は、経済学の効用理論の系譜に止まるものではなく、あきらかにこれまで説明してきた趣味論の系譜に属する消費理論という性格を持っているのである。このことを端的に示していると思われるのは、「見せびらかしの消費」の過程が、つぎのような二重の意味を含んでいるという点である。

  まず、第一の意味は、個人の効用を満足させる、物質的な財の消費というものである。ヴェブレンは効用理論を批判しているが、彼自身この物質的な欲求の視点をけっして軽視している訳でなく、消費の目的の第一のものとして位置づけている。このような個人生活の充実を目的とした、物質的な目的を「衒示的浪費の法則」のなかに含めている。物の消費がなければ、「見せびらかしの消費」も成り立たない。しばしば、ヴェブレンの消費理論を強調するあまりに、理論家のなかには「見栄」という精神的な欲求充足のみに、ヴェブレン理論を適用してしまう誤った見解が目立つ。これは、ヴェブレン理論が趣味論の系譜のうえに成り立っていることを忘れてしまった、誤った解釈と言えるだろう。趣味論の系譜にしたがえば、個人的感覚によって発展した「新しさ」を追求する原理も人びとの効用を拡大する点で、重要な目的として位置づけられる。もしこの目的を除いてしまうならば、次の第二目的の存在意義もかえって失われてしまうことになる。したがって、ヴェブレンのいう消費の意味のなかで、「新しい傾向をつくり出し、消費の新しい項目や、支出の新しい要素を付け加えるような創造的原理」という要素が、消費活動のなかで行われていることは、まず確認して置かねばならない。ここで、消費は「新しさ」ということを創造する可能性のプロセスという面を持っている。

  けれども、ヴェブレンが強調しているのは、まぎれもなく、「見せびらかしの消費」の第二の目的の方である。ヴェブレンは、消費を行って物質を消耗させることと同時に、消費は二次的な役割を持つと考える。彼の文章のなかに、これを見てみたい。消費を行って「見栄を張ろうとする人間の性癖は、差別的な比較の手段としての財貨の消費をもとらえそれによって消費財に相対的支払能力の証拠としての第二次的な効用をあたえた。このような消費財の間接的、第二次的な効用は、消費に対して、名誉の性格をあたえ、またやがて、このような見栄のための消費の目的に、もっともよく役立つ財貨に対しても、同じような性格をあたえる。金のかかった財貨の消費が、価値があるのであり、その表面の機械的目的のための実用性をその財貨にあたえることに役立つ費用を超過するほどの多くの費用要素をふくむ財貨が名誉ある財貨なのである。」ここで、指摘されている「第二次的な、間接の効用」とよばれていることが、ヴェブレン消費論の第二の意味を形成している。見せびらかしの消費は、他者との相互作用によって生成されることにここでは注目すべきであろう。

  ヴェブレンを今日の世界に復活させる意義は、どこにあるのだろうか。それは、ポストモダニズムがかつて犯したような、直線的な近代の論理を単に批判するだけのところにあるのではない。近代世界が次第に断片化し、バラバラになっていく姿を強調しようとするところにあるのでもない。そうしてまた、小さな変化しか生まなくなっていく世界を描こうとしたのでもない。ヴェブレンが強調しようとしたのは、これらの消費のルール化がいかに行われるか、という消費原理の提示である。このような消費の背後に潜んで、目に見えない制度の存在を、かれは指摘したかったのである。消費は、このようにその現象がたとえ個人的なものであったとしても、その背景にあるルールや習慣や考え方などが、社会的な過程を経て形成されてきたものである、という性格を持っている。

  人びとの社会文化的な関係が前提となって、市場での消費活動が有効なものとなる。人と人の間に形成される制度が成立して、はじめて財の生産や消費が可能になるといえる。ここで、消費のために制度や習慣が形成されるのは、それは消費の望ましい規準が実現されるために設立されるのである。実際、わたしたちは消費社会のなかで趣味形成を行い、消費制度の淘汰を通じて、消費の社会文化的基礎を築きつつあるのである。このように見てくると、消費社会のなかではあらためて消費という行為の、社会的な性格を確認することができる。M. ダグラスが言うように、財は消費者集団の合意によって価値を与えられる、という状況が、消費社会の根底にある。このことは、ジンメルが『貨幣の哲学』で指摘しているように、貨幣が次第にその取引の範囲を広げ、市場圏を拡大していくような、いわば距離化作用を拡大するために、その基礎に貨幣の及ぼす信頼圏を確立する必要があるということと同じである。ここでは、消費社会があまりに広く大きくなり、不確実な状況を増大させているから、かえってそこに消費を成り立たせるための、信頼性を保つための消費制度を形成させている、という二重の動きを見ることができる。

  9.贅沢問題とはなにか

  なぜ人は贅沢な消費を行うのであろうか。ふつう、このような問いを発するときには、贅沢は悪徳である、と主張するために使われる場合が多い。けれども、この問いが行われる背景をすこし考えてみると、わたしたちは暗黙のうちに、ここにひとつの事実を前提においていることに気づく。贅沢というのは、たとえ悪徳という認識があったときでも、いつの時代にも消滅することがなく、むしろそれ相当の存在理由を認めてきた現実が存在するという事実である。歴史的に見て、かなり貧しいと考えられた時代にも、贅沢にかける消費支出は、ほぼ普遍的に見ることができる。

  このような現実を認めるならば、贅沢消費はわたしたちが「望ましい」あるいは「望ましくない」と考える消費規準のひとつを表してきているといえる。もっとも、この規準はいつの時代でも、すべての人がつねに望ましいと考えるわけではないから、きわめて規範的な問題を提起してきているといえる。贅沢の反意語である「必需」という消費規準は、歴史的に見ても、現実を見ても、贅沢と比べればかなり客観的で確実性のある規準であると考えられてきたのに対して、この贅沢についてはかなり規範的で相対的な規準として成立してきているのを見ることができる。したがって、贅沢というきわめて規範的な観念を扱う場合には、ひとつの大きな問題を背負うことになる。それは、わたしたちがどのようにして贅沢消費に「望ましい」あるいは「望ましくない」という、正当なあるいは正当でない理由を与えることができるのか、という問題である。贅沢の正当性を判断するために、その枠組みを探求することが、少なくともここで求められなければならないことである。このために、今日賛沢問題について議論することはたいへん重要なことになってきているのではないだろうか。その昔のように、賛沢がほんの一握りの上流階級のものであったときには、権力をめぐる政治的な問題ではあったが、量としての経済問題としてはあまり問題ではなかったであろう。けれども、今日の消費社会では、このような賛沢消費が大衆化されている現実がある。前述したE.ゾラの「民主化された贅沢」が広まって、すでに一世紀が過ぎているのである。このような社会状況の中で、もしすべての消費者が贅沢を無限に求めるならば、ただちに今日の消費社会は単なる浪費社会となって崩壊することは明らかである。けれども同時に、このように大衆に行き渡った賛沢をすべて止めてしまいなさい、という極端な意見にも、あまり正当な根拠は存在しない。ここではむしろ、完全な禁欲はの特権的な賛沢になってしまったのかもしれない。このような大衆消費社会状況のなかで、なお多くの消費者が賛沢消費を行うとするならば、どのような規準とルールが必要とされるのか。そして、そのような賛沢消費はどのようにして定着するのか、ということが、問題となる。このような規準には、おそらく絶対的なものは存在しないであろう。消費が環境問題に及ぼした例でもわかるように、社会のなかで繰り返し、様々な規準を適用し、それらを試行錯誤によって淘汰することが重要になるであろう。

  この試論では、このような贅沢消費を評価する有力な枠組みとして、趣味論の系譜を追ってきた。この趣味論の系譜のなかでも、とくにジンメルの流行論と、ヴェブレンの衒示的浪費の原理に注目してきた。これらはともに、趣味論のなかの再帰過程を経て、社会にとって共通の趣味形成を追究している点で、共通点を持っている。このようにして、結局のところ、現代において求められているのは、どのような贅沢が望ましいものと考えることができるかという、趣味判断の規準である。贅沢消費が、単なる浪費(waste) に終わるのか、それとも最終的に社会での趣味( taste)という規準に結実するか、それが問題である。この小論の冒頭で注意を喚起しておいたように、贅沢消費が単なる「付加的な」ものに終わるのか、それとも長きにわたって残された結果「残基」を形成するに至るか、このことが問われている。贅沢消費のなかに見ることのできる、このような価値判断を含む趣味形成の重要性を、この小論では考えてきた。

  注記および参考文献

  (1) V.パレート『一般社会学提要』姫岡他訳 名古屋大学出版会 1996

  (2) J.E.リップス『鍋と帽子と成人式- 生活文化の発生』大林他訳 八坂書房 1988

  (3) W.ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』金森訳 論創社 1987

  (4) モンテスキュー『法の精神』野田訳 岩波文庫 1989

  (5) M.ダグラス『儀礼としての消費』佐和??浅田訳 新曜社 1984

  (6) T.シトフスキー『人間の喜びと経済的価値』斉藤訳 日本経済新聞社 1979

  (7) J.M.ケインズ『説得評論集』宮崎訳 東洋経済新報社 1981

  (8) A.H.マズロー『人間性の心理学』小口訳 産能大出版部 1987

  (9) D.ヒューム『市民の国について』上下 小松訳 岩波文庫 1983

  (10) ブリア-サヴァラン『美味礼賛』上下 関根他訳 岩波文庫 1967

  (11) D.ヒューム「趣味の基準について」浜下訳 『現代思想』16(11)号 1988

  (12) I.カント『判断力批判』上下 篠田訳 岩波文庫 1964

  H.アレント『カント政治哲学の講義』浜田監訳 法政大学出版局 1987

  H-G.ガダマー『真理と方法I』三島他訳 法政大学出版局 1986

  (13) W. ベイト『古典主義からロマン主義へ』小黒訳 みすず書房 1993

  T.イーグルトン『美のイデオロギー』鈴木他訳 紀伊國屋書店 1996

  (14) G.タルド『模倣の法則』風早訳 而立社 1924

  (15) G.ジンメル『流行( 文化の哲学) 』( ジンメル著作集7)円山他訳 白水社 1976

  G.マクラッケン『文化と消費とシンボルと』小池訳 勁草書房 1990

  (16)P.ブラントリンガー『パンとサーカス』小池訳 勁草書房 1986

  (17) M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚訳 岩波文庫 1988

  (18) M.モース『社会学と人類学I』有地他訳 弘文堂 1976

  (19) G.バタイユ『呪われた部分』生田訳 二見書房 1973

  ブルデュー『ディスタンクシオン(社会的判断力批判)I,II』石井訳 藤原書店1989

  (20)T.ヴェブレン『有閑階級の理論』小原訳 岩波文庫 1961

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